歌の表現法「心・技・体」

この講義では、私が「心・技・体」とは「心→体→技」のループであると提唱する訳を真理(宇宙の道理)に基づき教授致します。

まず初めに、スポーツ界で知られる「心・技・体」は、精神力(心)・技術(技)・体力(体)の総称です。これは、順番を表しているのではなく、語呂を合わせています。

語源は、明治44年に出版された古木源之助著「柔術独習書」の一節で、「体・技・心」として記されています。

第一:身体の発育
第二:勝負術の鍛錬(護身の術)
第三:精神の修養

これは、どれか1つでも欠けることなく3つ全てをバランス良く磨き、それが「三位一体」になった時、人間は最高のパフォーマンスを発揮することができるという教訓です。
このことから、あらゆるスポーツ界やビジネス界などでピラミッド図やパーセンテージ(割合)を用いて取り入れられています。しかし、ほとんどがその本質を捉えていません。なぜなら、真理(宇宙の道理)に基づいていないからです。

私が、この教訓を「歌の表現法」に置き換えるならば「心→体→技」のループです。

「心」を強く鍛え上げていく→善い肉体を作れる→自ずと高い技術が身に付いていく→
「技」を高く磨き続けている→善い精神が保てる→自ずと強い肉体に鍛えられていく→
「体」を善く保ち続けている→更に技術が高まる→更に己れの精神を磨き続けていく→
(このループにより上から「心・技・体」となる)

これは、まず初めに己の弱さとしっかり向き合い、全てを受け入れ認めることができる強い意志と業(ごう)と欲への邪魔な執着心を捨て去ることができる強い「心」を鍛える。その結果、善い精神が細胞に働きかけ壊れにくい「体」を作る。善い肉体には高度な「技」もしっかりと身に付いてくれる。しかし、そこで終わりではなくまた「心」へと繋がっていく。だから「初心忘るべからず」という言葉があるのです。
ここで大切なのは、必ず精神は受動的ではなく能動的であること。そして、それが繰り返し洗練された時に初めて「心・技・体」は融合し、もとの1つの状態(人格の完成)になる。即ち、それが「三位一体」です。

先に述べたピラミッド図やパーセンテージ(割合)の考え方では、三位一体になることは決してありません。なぜなら、それは合体であって融合ではないからです。
三位一体とは、「心」「技」「体」それぞれのバランスを均一にするからこそ、もとの1つに融合することができる。
これを歌手で言い換えるならば、感情(心)に走れば表現テクニック(技)が崩れ、表現テクニック(技)にこだわれば声帯(体)が壊れ、声帯(体)に頼れば感情(心)が動かない。だから、もとの1つに戻していきなさいと説いているのです。

その出発点が「心」です。何においても物事を成し遂げ、それをキープし続けていくためには、まず目的へ向かう意欲と決意と根性がなければ始まらない。つまり、強い意志と覚悟が必要なのです。それさえあれば、「体」と「技」は自ずと後から付いてきます。また、安定した精神を保っていれば、安易に技術ばかりを訓練して肉体を壊すリスクも避けられます。
しかし、いくら強靭な肉体と優れた技術を身に付けようと、「心」だけはそれが原動力となって付いてくることは決してない。結局、精神が受動的では何も始まらないのです。

これで皆様もお分かりですね。「心・技・体」の真意とは、3つ全てをバランス良く磨いていくこと自体が目的ではなく、それをもとの1つに戻していく(人格を完成させる)ために必要な「潜在意識(無意識領域)」を鍛える手段なのです。つまり、自己超越のためです。
音楽界や演劇界、スポーツ界やビジネス界などで活躍されている超人と呼ばれる者たちは皆、その境地に達するために「心・技・体」を教訓としているのです。


備考

2022年、島倉 学 監修による「心→体→技」の歌唱理論を講義した内容です。
改めて、内容に修正と補足を加えました。
ちなみに、「心」に当たる「第三:精神の修養」の意味は、心を修養することではありません。なぜなら、心と精神は異なるからです。心とは「感情」であり、精神とは「魂」です。

・心の作用を活性化すること=全てを受け入れ認めること
・心の作用を止滅すること=執着してしまう心を捨てること

つまり、上記2つの「心の作用(正知・誤解・言葉による妄想・睡眠・記憶)」を活性化し止滅することで、精神(魂)を修養できるのです。

                                   島倉 学



▲ ページTOPへ
                                       


  
Copyright © 2012 Shimakura Music Office All Rights Reserved.